2016年5月25日水曜日

京都-綾部-東舞鶴-若狭高浜


そんなに電車が好きなわけでもないのにまるで西村京太郎だ。


大学時代の友人に
高浜におもしろい人がいるから、と言われて会いに来たのだ。


友人は彼の地で大学で働いていて、顔も広くなってきているので
こういうことも起きるのだ。その調子で頑張りたまえ、と言いに行く。






京都は気が利いてる。


2016年5月6日金曜日

子どもを育てていない人間に何が分かる?




無自覚な差別用語というものがある。


「子どもを育てていない人間に何が分かる?」


というのは、その筆頭ではないだろうか?


これを言われて傷ついている、子どもを持たない女性
(男性はさほど言われる機会がない)を多く知っている。

絶対弱者の言われた側は、それを口にしないけれども、
シクシク泣いているけれども、これは強烈な差別用語だ。



経験上、子育てに大変な苦労をした人がそういうことを言うらしい。
子育てという苦役を押し付けられたと感じている人がそう言うのかもしれない。
(誰に押し付けられたのだ?)


「子どもを育てていない人間に何が分かる?」

これは、非常に厳しい言い方で、


韓国人に何が分かるのか? 中国人に何が分かるのか?


と全く変わらない言葉だ。

1つに、本人の責任ではない。
2つに、あなたとは根本的には分かりあえませんという宣言である。


点で。


こういう言い方に準ずるものとしては、
女には分からない、男には分からない、
ゲイでない人間には分からない、
みたいな言い方がある。


こういう差別と闘うために生きているのだ、
と思うことがよくある。

2016年5月2日月曜日

半日だけ京都へ

今日はグールドを聴いてるぞ。






半日、京都に行ってきた。
行く前からワクワクし、何泊もするはずの京都は、
もう日帰りするような存在になってしまった。
とっても悲しい。


でも行くとやっぱりワクワクした。

何年間かプライベートレッスンをさせてもらっていた方の
1周期、追悼コンサートがあったのだ。
その方はたくさんのお弟子さんから慕われていた。


堅苦しい場はどうも苦手だが、
開けてある窓の外には新島会館が見えて、
砂利道を歩く足音や鳥のさえずり
遠くをトラックが通る音なんかがそのまま聞こえて、
かしこまることのなく上品な、その方を思い出した。


パンフレットには
お弟子さんたちの記憶に残るその方の言葉が
書かれていた。

「あなたは大海に漕ぎだす舟のようね」
「貴女、フランスに行って本当によかったわね」
「あら〜スヴェーリンクを知らないの?」
「美しいものには悲しみがある」



僕はどんな言葉が残っているのかな?
と考えてみたら、コンラッドさーんと声が聞こえた。






形見分けでその方の譜面がたくさん並べられていました





京都の地名には相変わらずドキドキ



京都のタクシーの運ちゃんは修学旅行話が多い





窓が開いていて外の音も聞こえる



大河ドラマの舞台になった、えーとそのー、、、、建物



譜面の書き込み、僕には意味が分かりませんが
演奏家がたくさんいたので皆さんに意味をたずねると、
皆さん、意味が分かるんですね。

- -


個人レッスンを通じて、散々その方の体を触っていましたし、
ずっとその変化について考えていましたから、亡くなった時は、
悲しいというよりも自分の手足がちぎれたような喪失感がありました。
それを悲しいというのだよ。そうかもしれません。


久しぶりにその方の写真を見たり在りし日の写真を見て
やはりもうその足に触れることはないのだなと
自分の手の延長であったその人の足がこの世から消えてしまったことを感じたのでした。
それを悲しいというのでしょう。


なぜにグールドを今聴いているかというと、パンフレットで生前その方が
「平均律クラヴィア」全曲演奏をされたということを知ったのですが、
 何せ、その人の演奏したものが残ってないからですね笑