半日、京都に行ってきた。
行く前からワクワクし、何泊もするはずの京都は、
もう日帰りするような存在になってしまった。
とっても悲しい。
でも行くとやっぱりワクワクした。
何年間かプライベートレッスンをさせてもらっていた方の
1周期、追悼コンサートがあったのだ。
その方はたくさんのお弟子さんから慕われていた。
堅苦しい場はどうも苦手だが、
開けてある窓の外には新島会館が見えて、
砂利道を歩く足音や鳥のさえずり
遠くをトラックが通る音なんかがそのまま聞こえて、
かしこまることのなく上品な、その方を思い出した。
パンフレットには
お弟子さんたちの記憶に残るその方の言葉が
書かれていた。
「あなたは大海に漕ぎだす舟のようね」
「貴女、フランスに行って本当によかったわね」
「あら〜スヴェーリンクを知らないの?」
「美しいものには悲しみがある」
僕はどんな言葉が残っているのかな?
と考えてみたら、コンラッドさーんと声が聞こえた。
形見分けでその方の譜面がたくさん並べられていました
京都の地名には相変わらずドキドキ
京都のタクシーの運ちゃんは修学旅行話が多い
窓が開いていて外の音も聞こえる
大河ドラマの舞台になった、えーとそのー、、、、建物
譜面の書き込み、僕には意味が分かりませんが
演奏家がたくさんいたので皆さんに意味をたずねると、
皆さん、意味が分かるんですね。
- -
個人レッスンを通じて、散々その方の体を触っていましたし、
ずっとその変化について考えていましたから、亡くなった時は、
悲しいというよりも自分の手足がちぎれたような喪失感がありました。
それを悲しいというのだよ。そうかもしれません。
久しぶりにその方の写真を見たり在りし日の写真を見て
やはりもうその足に触れることはないのだなと
自分の手の延長であったその人の足がこの世から消えてしまったことを感じたのでした。
それを悲しいというのでしょう。
なぜにグールドを今聴いているかというと、パンフレットで生前その方が
「平均律クラヴィア」全曲演奏をされたということを知ったのですが、
何せ、その人の演奏したものが残ってないからですね笑
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